本メルマガは、IoT価値創造推進チームのリーダーである稲田修一が取材を行ったIoT導入事例の中から、特に参考となると感じた事業や取り組みを分かりやすくお伝えする見聞記です。今回は、異なる企業が提供する製品の連携を可能とするクラウド間相互接続サービスを提供しているITベンチャーのIoT-EX株式会社(本社:東京都千代田区)の松村淳代表取締役CTOに、同社が実践している超高速でのサービス企画・開発・提供のノウハウについて伺いました。
そのノウハウを一言で表現すると、イノベーティブリーダーである松村氏が陣頭指揮を執ってチームの力を引き出し、そして上手にフィードバックをかけることでアイデアを練り上げるというイノベーション手法の基本に則ったやり方です。しかも今回の開発は、基本的に在宅勤務で実施しています。
【ここに注目!IoT先進企業訪問記(39)】
濃厚接触者特定サービスを6週間で企画・開発・提供する-IoT-EXの実践
1. はじめに
新型コロナウイルス(COVID-19)感染症の拡がりを受け、現在、在宅ではできない業務や国民生活・国民経済の安定確保に不可欠な業務を行っている企業は、この対応に苦労しています。このウィルスは、主に感染者との各種接触により伝染するので、感染者と濃厚接触した者を早期に隔離しクラスター化を防ぐことが必要だからです。特に、対応に当たっている各企業の総務部門が困っているのは、感染者が判明した際の濃厚接触者の迅速な特定作業です。
その原因は明白です。作業を人手で行っているからです。ヒアリングによって濃厚接触者を特定し、電話やメールで連絡し、隔離状態を保ち、状況確認や定期的に報告するよう指示しています。手間暇がかかるだけでなく、本人の記憶が頼りの信頼性に乏しいやり方です。この危急の課題を解決するためにIoT-EX社が開発したのが「濃厚接触者特定サービス Corona Tracer」です注1。このサービスは、検討から開発までを2週間ちょっとで終了し、さらに4週間で販売準備を整えサービス提供に漕ぎつけたそうです。
注1:濃厚接触者特定サービスCorona Tracerは、会議室に設置したBeaconとスマートフォンアプリを利用し、会議室にいた人のデータを自動収集する。感染者から報告を受けた時に、総務担当者はCorona Tracerの管理画面から従業員の名前を入力すると、感染者と濃厚接触した記録(一定以下の距離で一定時間以上接触)がある者をリストアップする。総務担当者はその情報から優先順位を付けて濃厚接触者候補に連絡し、自宅待機や検査の指示、継続的な報告などの指示を行う。Corona Tracerの詳細は、IoT導入事例紹介を参照されたい。
2. 特許申請資料と絵で課題と価値を発見
同社がCorona Tracerを考案するきっかけとなったのは、2020年3月23日に行われたロボティック・プロセス・オートメーション(RPA)のUiPath社との打ち合わせだったそうです。RPAがコロナ対策に貢献していることに刺激され、自社のクラウド間相互接続サービスを利用した貢献策について考え始めたのです。そして、会議室に設置したBeaconとスマートフォンアプリを利用して会議室にいた人のデータを自動収集しておき、感染者からの報告で濃厚接触者を自動的にリストアップするアイデアを思いついたのだそうです。
しかし、単に思い付きだけでは価値創出には至らないことが多々あります。ここで松村氏が行ったのは、いつものように特許申請書の作成とサービス導入前後で何が変わるのかを絵にすることでした。
特許申請書の作成は、現状を深く考察し、現在の課題と新たな価値を発見するプロセスとして有用です。前例と比べて何が新しいのか、その価値の本質は何かを弁理士との共同作業で詰めることによって、表面的なアイデアだけでサービス開発を行う危険性を避けることができます。さらに、早期の特許取得は、アイデアの盗用防止にも役立ちます。
加えて絵を描くと、使う人のメリットを明確化できるなどの効果があります。複数の人に現状の課題とサービス導入後の姿を説明し、説明内容を絵にしてもらいます(下図参照)。導入後の姿を文章で示すことも可能ですが、チームでイメージを共有し、さまざまなアイデアを喚起するには絵の方が有効です。実際、絵をもとに議論することで、現在、誰が何に困っているかはっきりします。また、抜けているアイデアに気付くことがあります。
特許申請書作成によるアイデアの深堀りと絵を描いた結果として、新たな価値が明確化しました。多くのスマートフォンでアプリが使える、スマートフォンを持たない人でも使える、従業員のプライバシーに配慮できる点で他のスマートフォンアプリより優れていることが分かりました。特に、社員全員が使えることは、企業にとって大きな価値でした。また、感染者や調査・連絡を行う総務部門の担当者の負担軽減や作業の迅速化も重要でした。
図:コロナ感染者が判明した際のオフィスの現状とCorona Tracer導入後の姿
【出所】IoT-EX株式会社提供資料
同社が濃厚接触者特定サービスを開発した理由の一つは、自社ビジネスの発展方向に合致するからです。同社は働き方改革の流れを受け、社員の健康増進や業務効率向上に効果があるオフィスIoTサービスに興味を持っています。例えば、熱中症や花粉症などの予防は、センサーで就業環境を検知し、空調の温湿度や清浄度を制御することで予防することができます。クラウド間相互接続サービスIoT-EXを使えば、このセンシングデータを収集するクラウドと空調を制御するクラウドを簡単に連携し、サービスを実現できるのです。同社は、IoT-EXの適用領域拡大も視野に入れて検討を行ったのです。
3. オープンソースの使用とアジャイルが基本のサービス開発
価値を実現するソリューションについてはスピード重視のために、手持ちの技術と多くの人々が持っているスマートフォンで簡単に実現でき、導入後も価値提供を継続できるものを基本に考えました。そしてPoC(Proof of Concept:概念実証)を行い、技術的に問題ないことを確認し、開発の意思決定を行っています。
開発には資金調達が必要でした。幸いなことに、銀行からの融資を受けることができました。この資金面の手当てと並行し、開発作業を進めています。開発は同社の他のサービス開発と同様、アジャイル注2なソフト開発を実践する手法の一つであるスクラム注3を活用しています。スクラムでは、顧客目線でプロジェクトの目標やサービスの要件定義に関わるメンバーが必要です。同社では、営業とマーケティング・サポートの担当者がこの役割を果たしました。
開発に当たっては、まず、サービス提供開始日を2020年5月11日と決めています。そして、そこから逆算して、必要な作業と担当者、納期を決定しています。ツール類注4を使って、細分化した項目単位に問題点を解決し、仕様を確定させながら要件を定義し、Web会議でレビューを繰り返し確定させるというスクラムの手法に基づいて開発を進めています。ソフトは、日本とニュージーランドのエンジニアが分担して開発しました。
開発の基本はオープンソースの使用です。運用コストの縮減策を含め、オープンンソースを使いこなせるエンジニアを雇用しているので、運用コストが安いサービス開発が可能でした。また、同社のほとんどのエンジニアは常にリモートワークで仕事をしており、今回の外出自粛の要請を受けても、開発に全く影響はなかったとのことです。
注2:アジャイルは「すばやい」「俊敏な」という意味。「アジャイル開発」は、システムやソフトウェア開発手法の一つで、「要件定義→設計→開発→実装→テスト→運用」といった工程を機能単位の小さいサイクルで繰り返しながら開発を進める。開発途中で顧客要望などを取り入れ、仕様を追加・変更することが予想される開発案件に向いている。
注3:アジャイル開発の代表的な手法の一つで、①要望を優先順位ごとに並べかえ、その順に機能を作る、②開発プロジェクトを数週間程度で完成できる機能に区切り、決めた期間内にその機能を完成させていく、③チームのコミュニケーションを重視し、プロジェクトの状況や進め方に問題がないかメンバー同士で毎日確認しあう、④作っている機能が正しいかどうか、定期的に確認の場を設けるなどの特徴を持つ。少人数チームの力を最大限に引き出すことを狙いとしている。
注4:営業/マーケティング・サポートチームは、Slack(チーム用のコミュニケーションツール)をベースに要件を固めた。一方、開発/運用/保守/品質保証チームは、Confluence(チームで情報と知識を共有することで生産性を向上させるコラボレーションツール)とJira Software(主にバグトラッキングや課題管理、プロジェクト管理に用いられるツール)を使って要件を整理し、細かいタスクに分割した上で各開発者に作業を割り振り、進捗管理を行った。
4. マーケティングはマーケットインの考え方で挑戦中
同社は、ビジネスパートナーになると意思表示をしたUiPath社の会議室に、2020年4月10日にサービス提供用機器を持ち込み、テストマーケティングを開始しています。収集データの精度や運用上の課題の洗い出し・改良は、マーケットイン注5の立場で行いました。
これは結果として良かったそうです。得てしてエンジニアは、データの精度にこだわります。今回も、電波の強さで距離を正確に測定するなど、もともと解決が難しいことを議論することに必要以上の時間を使ったそうです。スマートフォンがある場所(机の上、背広のポケット、鞄の中など)で電波の強さは違います。また、スマートフォンの電源を切っている人もいます。エンジニアはこの問題をどう解決するかにこだわりました。
でも、マーケットインの立場で考えると、精度は二の次で良かったのです。接触の程度が分からないので、多くの企業で感染者が出たフロアにいた社員全員を出社させないという安全第一の運用を行っていたからです。精度が悪くても、同社のサービスを使えば隔離が必要な人数を減らすことができます。また、電源を切っていた人がいれば、安全のためその人を出社禁止リストに加えればよいのです。
マーケティング戦略については、反省しているそうです。誰に、何を、どのように売ってもらうかという、売り方を先に考えてしまったからです。顧客(導入したい企業)を見つけることが先でした。顧客が見つかれば売ってくれる会社はすぐに見つかる、という当たり前のことに気付くのが遅れたそうです。
ターゲット市場は、B2B2E注6でした。現在は、それに合わせて営業資料を準備しています。この際もチーム用のコミュニケーションツールであるslackを利用しています。担当者が意見を出し合い、内容を整理し、Web会議でレビューして確定しています。現在は、プレスリリースを見て問い合わせがあった企業を中心に営業活動を行っています。また、UiPath社がリストアップした顧客向けの営業も2020年5月11日からスタートしています。
注5:「マーケットイン」とは市場や顧客の立場に立って、消費者が必要とする商品やサービスを開発・生産・提供しようという考え方のこと。これと対比する概念として、独自技術や製造設備の有効利用の立場から提供側からの発想で商品やサービスの開発・生産・提供する「プロダクトアウト」という考え方がある。
注6:Business to Business to Employeeの略語。便益を受ける顧客は従業員であるが、ビジネスの対象は従業員の福利厚生などを考える企業経営者や人事担当者などである市場のことをいう。
5. 超高速開発の基本は自前開発
超高速開発が可能だった一因は、これを自前でやっているからです。松村氏は「ものづくりの基本は自らが開発に携わり、細かな部分にまで目を通し、中途半端なものを作らないよう手戻りを厭わない」ことだと明言しています。これを可能にするには、少人数のエンジニアでいくつかのチームを構成し、各エンジニアの担当範囲を明確にし、期限を設定し、開発の進捗状況や課題を管理するという開発全体を統括する手法を身につける必要があります。
我が国では、コスト低減を優先するため企画設計に特化し、開発をアウトソースする場合が多いようですが、ソフトは自前開発という流れが世界的には主流であり、わが国でもIoTやAI関連のソフト開発などを契機にこの流れが拡がりつつあります。デジタルトランスフォーメーション流れの中で試行錯誤しながらビジネスを変革するため、社会の急激な変化にビジネスを迅速に対応させるため、ソフトの自前開発という能力はICT企業には必須のように感じます。
最後になりましたが、松村氏がまとめてくれた超高速開発の定石は次のとおりです。どのような開発であっても「開発の定石」に忠実であることが必要で、要は超高速開発に習熟した人材がいることが基本だ、と暗におっしゃっておられるように感じました。
まず、次の事項を整理する
- どのような機能が求められ、どのような役割を果たす必要があるのか
- その機能や役割の実現に向けて、どのような問題があるのか
- サービスを提供する上で、どのような制度的、技術的障害があるのか
次に、サービス提供に必要な開発については、下記の手順で実施する
- 仮説を立てて、実際に検証する範囲を決める
- 細かく決めると作れないことがあるので、あらあらのコンセプトデザインを作る
- 机上でシミュレーションを行う
- 実証しなければならない機能に的を絞った実証システムを作り実証する
- 機能が実現可能であり、市場が見込めるのであればアジャイル手法で商用システムを開発する
今回紹介した事例
Corona Tracer(コロナ・トレーサー)
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